CLIMAX & London Nite

what difference does it make? 六本木トンネルの近く、今ではヒルズの近く。オリエンタルビルの地下にあったCLIMAX。かつて、80年代にブリティッシュ・ニューウェイヴ(以下BNW)音楽がかかる貴重な店、でした。なんたって、当時は、インターネットはもちろん、携帯も、パソコンすら普及していなかった時代。あー、信じられない。この30年間の時代の生証人として私は語ろう! ほんま、世界は急速に変わった。

Wednesday, November 22, 2006

Heaven is waiting! むちゃくちゃロンドンライフ

ここで唐突にフラッシュバックしたように、なぜか遠い昔のロンドンでの生活について書きます。
見たライブ:wire, that petrol emotion, test department, jesus and merrychain, bolshoi・・・その他いろいろ。michael clark and companyも見た。すばらしかった。

私がロンドンに旅立ったのは確か1987年のことで、個人的にはBritish new vwave POPの黄金期は1983年だったので、自分のなかでも音楽マニアの妄想がややピークを過ぎていた頃だった。そんななかダメ押し的に、ある日私はロンドンに向かったのだ。
そう。それにしても、1983年はインディーズ・ポップの名曲が豊作の年だった、と記憶している。depeche modeは"everything counts"を出したんじゃなかったか。tears for fearsは? aztec cameraは? lotus eatersは? danse societyは"heaven is waiting"ではなかったか?・・・・

さて、それはさておき、ロンドンでは最初westhampstedの友だちのフラットに転がり込んだ。その後、人間関係がメンドーだったり、多少のトラブルにあったりしながら、golders green,bayswaterなどを転々としたあと、最後には私はwesthampstedのマンション(珍しくmanshionなのだ)の一室、ゴミ溜めの中で暮らしていた。そこはまぁ何というか、いわゆるゴミ屋敷。kitというナゾの男の家だった。

たいてい向こうの家はフラットで、共同の玄関を鍵をあけて入ると、部屋はそれぞれに鍵がついていて、その一部屋を借りるかたちで暮らしている。いくつかあるキッチンやパスルームを何人かでシェアをする。そんな感じ。
でもkitの家はいわゆる「マンション」で、共同のエントランスがあって、鍵をあけてそこに入ると、各家の玄関がある。日本のマンションとまぁ同じ。kitのマンションは各フロア2軒ずつというつくりだった。
家は、早い話が3LDK。玄関横に広いリビング、ベッドルームか3つ、バス・トイレ、廊下の一番奥にキッチン。イギリスの家なので、もちろん広いバックヤードがあって、キッチンの窓から見降ろすことができた。
家としては、良い家だった。けれど、そこはゴミ屋敷だった。家の半分はよくわからないガラクタやゴミで埋まっていた。Kitはwest hampsteadのmill laneという通りに小さなリサイクルショップもどきをやっていて、そこの在庫っていうんですか? しょ〜もないゴミっていうんですか? それを家に置いていたんだ。しかも、そのゴミに埋まった家の中には、実はeddieという、これまた意味不明なおやじも住んでいた。あまりに静かな住人だったので、私は後になってそれに気づいた。

ともかく私はその家の一番良い部屋、広い広いリビングを借りることになった。安かったから。赤い壁の、高い天井の、暖炉があり、張り出し窓のついた、本当はとても良い部屋。といっても、部屋の半分はゴミで埋まっているんだけどさ。おまけにドアもなかった。
ドアをつけろ、というとkitは下の倉庫から外したドアをもってきて、とりつけてくれた。鍵もつけろ、というと、苦笑しながらつけてくれた。それから「冷蔵庫が欲しい」というと、どこかから中古の冷蔵庫を運んできた。
ガスも無かったので「信じられない」というと、ガス屋がやってきた。でもkitはあまりに家が汚いので本当は誰も中に入れたくなかったみたいだ。やってきたガス屋は「what a mess!」「oh dear!!」としきりにつぶやいた。それでもガスが使えるようになった。

憶えているのは、家にやってきた最初の頃のこと。まずはリビングの一画に自分の住めるスペースを自分で作ることにした。大きなものを部屋の隅によけて、掃除。友だちの家から数日通って部屋を作った。
「掃除機がほしい」というと、キットの店の子が探してくれたりもしたけれども、すぐには来なかった。それで私は同じマンションの上だったか、下だっかの住人に借りることを思いついて、上だったか、下だっかの家をノックしたんだ。
そこには老夫婦が住んでいて、私が「kitの家の部屋を借りることにした。つきましては掃除機を貸してくれませぬか」と言うと、表情がにわかに堅くなり、「アナタ、入りなさい」とばかりに私を家にひっぱり込んだんだ。そしてお茶など出しながら、アナタはどこからの来たの? いくつなの? 学生なのか? ここで何をしているのか? どうしてあの部屋を借りることになったのか? などなど、尋問が始まった。(ちなみに、私がkitの貸ルームを見つけたのはタバコ屋の張り紙だった。)
それで、ともかく適当に質問に答えて、私は「家がとても汚いから掃除をしたい。でも掃除機がないから、貸してもらえないだろうか」と言った。
すると「ええ、そりゃあ汚いでしょうとも」とそのおばあちゃんは言った。だから、最初はホウキとちりとりを貸してあげるから、それで大きなゴミをまずとりなさい、と。それでキレイなったら掃除機を貸してあげる、と。しごくまともに。
私は「Sure!」と了解した。

借りたホウキとちりとりで部屋のゴミをとって掃除をしていると、夕方近くになってkitが家にひょっこりと戻ってきた。それで、やぁ掃除をしているのか? なんて機嫌良く言ったんだ。そこで私は「このホウキとちりとりを上のおばあさんに借りたの」とこれまた機嫌良く報告をした。そして、ではでは大きなゴミはとれたのでホウキを返しに行ってきます。掃除機を借りてきま〜す、と老夫婦に家に向かった。
「キレイになりました」とホウキとちりとりを返すと、おばあさんは「本当に? 見てもいい?」と言った。「why not?」私はおばあさんを従えて、家に戻った。
ところが、私がおばあさんと一緒に戻ってきたことに気づいた途端、kitはひどく慌てて、ドアを押さえておばあさんを入れさせてくれなかった。私が入ったあとにすぐにドアを閉め、3センチくらいだけ開けた隙間から、「ホウキとちりとりをありがとう。彼女にはボクが掃除機を貸すからいいよ。thank you」とだけ言うと、そのままドアを閉めてしまったんだ。
「なんで!!」私が怒ると、kitは「この家が汚いのは有名なんだ。それで通報されたなくないんだ」というようなことを言った。そして「掃除機はボクが何とかするから、誰もこの家には入れてはないけないよ」なんて話になったのだった。
つまり、家のなかのゴミの山は他の住人にもバレていて、そのことで他の住人とモメたくないというのが彼のスタンス。
私は機嫌悪く怒っていたんたけど、後日、彼は中古のフーバーを買うお金を私にくれた。私はストリートマーケットで、安い中古のものを見つけた買った。

kitは何だかとてもやさしいヤツだった。しょうもない人だったけれど。悪い人ではなかった。やさしい人だった。それなのに私はずいぶんと彼に冷たい態度をとっていたな。なんだか、とても申し訳ない気持ちが今になってしている。いや、本当に。

後日談としては、その後バイトで知り合った日本人のクミコさんという女性が、物好きにもkitの家の別の部屋を借りるといってやってきた。何よりも安いのが魅力だったんだ。
彼女は私よりも徹底していたので、借りる部屋のゴミをすべてかき出して(その部屋は狭い子供部屋だった)ピカピカにふき掃除をすると、床を緑色のペンキで塗ったりもした。すばらしい。廊下は部屋から運び出したゴミで埋まってしまったけれども、ともかく、彼女がやってきて、家をシェアするメンバーに加わった。
ただ、それからしばらくして、私はお金がつきて日本に帰ることになった。どのくらいしばらくしてからかはあまり憶えていない。
私がいなくなったら、その家を出る、というようなことをクミコさんは言っていたし、その後どうなったかは忘れてしまった。
憶えているのは、出発の日、家には今は亡き私の友人とそのダンナがわざわざ見送りに来てくれたこと。そして友人のひとりが空港まで一緒に来てくれたのだけど、乗り込んだキャブの調子が悪くて、途中で車を変えて空港に向かったこと。
それからそれから、ともかく長い長い旅路を経て、なんとか成田に私は帰りついたのだった。
9ヶ月ぶりの帰国だった。

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