CLIMAX & London Nite

what difference does it make? 六本木トンネルの近く、今ではヒルズの近く。オリエンタルビルの地下にあったCLIMAX。かつて、80年代にブリティッシュ・ニューウェイヴ(以下BNW)音楽がかかる貴重な店、でした。なんたって、当時は、インターネットはもちろん、携帯も、パソコンすら普及していなかった時代。あー、信じられない。この30年間の時代の生証人として私は語ろう! ほんま、世界は急速に変わった。

Wednesday, October 23, 2013

復活

7年ぶりに再開するのはどうだろうかと。

20代のころの自分は半端ないカタワものだ。
世の中のあらゆることに背を向けて、ある音楽だけを通して世界を見ていた。
同じくそのような人たちがいたから許される。
その世界だけが自分の現実だった。
その当時の現実は、私にはこれまたとてつもなく退屈だったのだ。
そのなかで、どうやって生きていったらいいか。
一切の妥協もなく。
そんなことばかりを考えていた。

当時の私たちの妄想は、何か場所を作ることだった。
今なら簡単にできる。
簡単に仲間も募ることができる。
場所があれば。居心地の良い場所があれば。

私たちは若くてお金も持っていなかったので、場所を作ることができなかった。
すべては経済原理に負けてしまった。
アンダーグラウンドなものがビジネスになると思わせたのは、もう少し経ってからだ。
ビジネスになって、すべては同じ地平の明るみに出た。ただそれだけのこと。

私は人を探している。


Friday, January 26, 2007

Japanese Whispers 3 よくわからない話

kumicoさんと再会したのは、何がきっかけだったんだろう。
おそらく、私が連絡をしたのだろう。なぜなら彼女には携帯があるけれども、私にはない。それに私はしばしば住居を変えている。連絡をしたのは、kitのゴミ屋敷に引っ越した後だったと思う。(ちなみにkitの家には電話があった)
そのころには、さまざまなストレスに耐え、いや、実のところ耐え切れず、私は過食に走り、ずいぶんと太っていた。久々に再会したkumicoさんは、開口一番「太ったね〜」と言った。

そのときにはもう赤ちゃんは生まれていた。男の子で、名前をakira君と名づけられていた。最初にその赤ちゃんを見たときのことなど、肝心なことは本当に記憶から欠落している。
それでも再び私はHampsteadの彼女のフラットにいき、ベビーシッターをやることになった。
昼間、彼女たちが出かけたときには赤ちゃんと留守番をして、子どもを抱いてHampsteadの知的なシアターの前まで行ったりした。そこの綺麗な男の子と話したくて、実際に友だちとの約束もあって、赤ちゃんを抱いたまま、彼に「ここに小柄なJapanese Girlが来なかったか?」なんて聞いてみたりもした。(実は、この彼とは人づてにつながりがあるのだった。それはまた別の話)

ちなみに再会したときに、家には同居人の彼女はいなかった。kumicoさんの話によれば、恋人ができて引っ越したとかそんな感じで、でも二人もうまくはいってなかったのかなという印象を受けた。おそらく、私があまり親しくできないことに、彼女も気づいていたんだろう。
そんなわけで、私はベビーシッターとして、空いた子ども部屋に泊ったりもした。

そのころになると、kumicoさんは次第に経済的に厳しい状況になってきていた。それが実際にどの程度逼迫していたのかはわからない。仕事をしなくては、と彼女はいい、実際にコンパニオンみたいなことをしたりもした。シンプルだけど綺麗な顔立ちの人だったので、厚化粧をするとものすごく雰囲気が変わった。一度だけ、私はその姿を見た気がする。

ある時、私はまた彼女の家にいて、ベビーシッターを頼まれていた。その日は仕事ではなく、Didierとのデートで食事に行くため、私は留守番を頼まれたんだ。戻り時間を約束して、私はAkira君とカーガンと家に残った。
けれども、いくら待っても彼女たちは戻ってこなかった。そのとき私が住んでいたWest HampsteadとHampsteadまではミニ・バスが通っていて、それに乗れば一本で行けた。ただし、それに乗れないと地下鉄を乗り継いだように記憶している。しかも、私の家(つまりkitの家)は地下鉄の駅からはひどく遠かったんだ。
結局ふたりが戻ったのは、約束の時間よりも2時間近く遅れてからだった。
私はひどく不機嫌に彼らを迎えた。けれども彼らには、私が腹をたてていることが心外だったみたいだ。そして、とっくに電車もなくなっているし、私は彼らが私のためにキャプを出してくれると思っていたけれど、そんな気もないようだった。
ムっとしている私に、kumkicoさんはとりあえず電話をしてキャブを呼んでくれた。向こうのミニ・キャブは頼んだ時点で行き先を言い、値段を交渉する。いくらいくらだけどいい? とkumicoさんは私に訊ねた。「私が払うの?」私はひどく頭に来た。けれどもそれをはっきりと言うことができなかった。ベピーシッター代も、当初の話よりも少なかった気がする。でも、それについても機嫌の悪い顔をすることしかできなかった。ただ私はひどく傷ついた。そういう思いやりというか、理屈ではない部分で人の配慮を期待して裏切られると、一番傷つくのだ。それは私の勝手なのだけど。
結局どちらがキャプを払ったのか、記憶はひどくあいまいだ。どんな風にキャプに乗って、どんな風に帰ったのかについて、本当に何も思い出せない。ただひどく不愉快で、ガッカリした気分だったことだけは確かだった。

それから数日後、私は電話でkumicoさんと話している。おぼろげな記憶を辿れば、おそらく私が電話をしたのだ。
気まずい思いのまま数日。私は不愉快な思いをしたけれど、同時にそんな自分に対する自己嫌悪の気分にかられた。私は自分の態度にkumicoさんも怒っているのではないかと、気になっていたんだ。
結局のところ、すべでは自己弁護だ。でも私は悪く無い、という。自分の正当性をわかってほしいだけ。つまり、なぜ機嫌が悪くなったのか、ちゃんと伝えたいと思った。それは要するに、親しき仲にも礼儀あり、みたいなことなのだけど。
電話からは、いつもと変わらない感じのkumicoさんが出て、私はホッとした。彼女は、今は手が離せないのでかけ直すと言い、電話はちゃんとかかってきた。
私は「イヤな思いをしたままなのはいやだったから」と話した。ベビーシッターがイヤなのではない。代金が少なかったら怒ったのでもない。ベビーシッターといっても何でも屋ではない。そのくらいは配慮してほしい。こちらの都合も考えて、時間は守ってほしかった・・・云々。
kumicoさんは「ごめん」と言ったものの、それほど悪いと思っている風でもなかった。あのあと彼女はDidierに、なぜ私が怒っているのか? と聞かれたそうだ。
「そういうところ、Didierはやっぱりこっちの人だから感覚が違うんだよね。お金を払って頼んでいるんだから、悪いとか考えないのだ」と彼女は言った。
ビジネスライクというか、何というか。悪いからとか、遠慮とか、そういう感覚がないのだ。
そんなものか、と私は思った。自分たちのことよりも、私の都合を優先して考えるなんてことはないのだ。しかもお金を払って頼んでいるのだから当たり前。黙っていても気を遣ってくれるだろう、なんていうのは日本人的な感覚。何時までに帰ってこい、と私は言うべきだったんだろう。何時以降はやりません、と。

ともかく、私たちはいろいろと電話で話した。kumicoさんはいつも変わらなかったし、私は自分の気持ちを伝えられて良かったと思った。
「またベビーシッターするから」と、私は言った。
「また遊びにきて」 kumicoさんは言った。

けれども、その電話以降、私はkumicoさんに会うことはできなかった。
その後、電話をしてもいつも留守だった。Hampsteadまで行ってみたが、家はやはり留守だった。メモをドアに置いておいたが、連絡はなかった。
数日後、私は再びHampsteadを訪ねた。呼び鈴を押すと人の気配がし、そしてドアがあいて顔を出したのは見知らぬ白人の若い女性だった。
「kumicoは?」 
そう聞くと、その女性は、仕事に行っている、と答えた。そして自分はベビーシッターをしているのだ、と。

静かなHampsteadの道を私は考えながら歩いた。
Kumicoさんは、もう私にベビーシッターを頼まない。
もしかしたら、私が思うよりもずっと彼女は金銭的に追いつめられていたのかもしれない。私はその彼女を責めてしまったのかもしれない。
もしかしたら、あれからDidierと何かあったのかもしれない。この前のことが、ささいだけれど彼女を切実にする何かのきっかけになってしまったのかもしれない。
それはすべて、私の憶測。自意識過剰の関係妄想だ。
でも私は思った。子どもを産んで育てる現実に、彼女の不安は的中していたんだろうか。

結局そのあともkumicoさんから連絡はなかった。私も電話をするのをやめた。Hamsteadに行くこともやめた。
そう、やめた。

Japanese Whispers 2 よくわからない話

kumicoさんの話は、考えれば長い。そんなに深い付き合いでもないのに。

それから私は時々kumicoさんを訪ねたりした。彼女の家はフラットのベースメントにあった。道から少し階段を下りた半地下にあって、広かった。広いリビング、広いキッチン、広いベッドルーム、広いバスルーム。それから、小さな子ども部屋と、洋服で埋まった物置部屋があった。
彼女は子ども部屋をシェアで貸し出そうとしていて、借りないか?と私に訊ねた。私も部屋を探していたけれども、家賃が高かったので断った。確かに、キッチンとバスルームも自由に使えるし、Hampsteadだし、高いに決まっている。
後日、kumicoさんは別の日本人女性を部屋を貸す相手として探してきた。名前も顔も、まったく思い出せない。大阪の人だったことだけ憶えている。私はその人をあまり好きにはなれなかった。

最初に会った日には気づかなかったけれども、実はkumicoさんは妊娠していた。当時で7ヶ月目くらいだったか。小柄で細い人だったので、まったくわからなかった。わかったのは、そうして訪ねていたある日、Hampsteadのカフェでお茶をしていたら、kumicoさんの知り合いのOld Ladyにばったり出会った。彼女は同じテーブルにやってきて、そしてふたりはペラペラペラペラとおしゃべりを始めた。残念ながら私の語学力ではその会話についていくことはできなかったのだけれど、Old Ladyはときどき私を見て微笑み、私も微笑み返したりして、しばらく会話は続いたのだった。
で、彼女が先に席をたったあと、kumicoさんは「今の会話でわかったよね?」と言った。「実は赤ちゃんがいるんだ」

kumicoさんには、そのときDidierというフランス人の恋人がいた。確か写真家だった。大きな目をしたやさしそうな人で、いかにもフランス人らしく甘い雰囲気がした。シャイな感じて私たちはお互いに人見知りをしたけれども、悪い人ではなかった。
kumicoさんのお腹にいるのは、このDidierの子どもではなかった。それがふたりには大きな悩みの種だったんだ。
ところで、彼女はどんな風に暮らしていたかというと、どうもコーディネータのような仕事をしているらしかった。日本にいるときには、●bandという、まぁ名前を聞いたことがあるかな・・・みたいな日本のバンドと関わっていて、そういう興業とか、制作に関連するフリーのコーディネーターという感じだった。私が出会ったときはほとんど仕事をしていなかったけれども。
で、それでは彼女のお腹にいるのは誰の子どもか、というと、そのバンド関係の人だったように記憶している。かつて彼女はそのバンドの人と付き合うか結婚をし、そして別れていた。それが仕事絡みで日本に戻ったときに、たまたまヨリが戻ってしまい、妊娠した。妊娠に気づいたのはロンドンに帰ってからだった、といった話だった。
彼女は子どもが欲しいし、できれば日本人の子どもが欲しいと思っていた。理由は何だったろう? 多分、自分が日本人だからだろう。
だから子どもを彼女は喜んでいた。けれども、そのためにその日本人と結婚する気はまったく無かったんだ。なぜなら、今はナイーヴなDidierという恋人がいるから。Didierは彼女と生まれてくる子どもを受け入れているけれども、やはり自分の子どもでないことには抵抗があるみたいだった。どうする、Didier?
でも彼女はもちろん産むつもりでいて、同時にひどく迷っていた。

ある時(おそらくそれはもう少し後になってから)、私と彼女と彼女の家の同居人(子ども部屋の)とで、彼女の子どものことで議論したことがあった。私は、子どもに対して胸をはって生きていくことが大事だと思う、というようなことを言った。そうしてれば大丈夫だよ、なんて。子どもに対して迷う態度を見せてはいけない、なんて。
けれどもkumicoさん自身は弱気だったし、その同居人も、そんな私の強気な意見には同意しかねるようだった。もっとウェットな見解を持っていた。「迷ったり、悩むのは仕方ない」といった。それは確かに仕方ないさ。
今思えば、迷ったり、悩んだりしている人には、ただ迷ったり、悩んだりさせてあげるのが大事なんだ。励ましたり、諭したりすることなんて、大きなお世話だ。だって迷ったり、悩んだりすることしかできないのだから。
若造だった私はずいぶんデリカシーのない正論めいたことを言ってしまったんだろうな。(kumicoさんも同居の彼女も私よりも年上だった)
そう、今なら言える。悩んだりしている人は、決して答えやアドバイスなんて求めていないのだ。意見なんて聞きたくないのだ。だからただ「そうだね・・・」と答えるのが正しい。
そう今なら言えるけれど・・・。

そんな会話の一件があってから、私は少しkumicoさんたちと疎遠になった。そこの同居人と私はどうも気が合わない気がしたし、なんとなく気まずくなった。それに私自身も自分の友人関係でいろいろとあり、住むところを変え、ドイツに行ったりもあった。そうして、しばらく連絡をしなくなった。

Japanese Whispers 1 よくわからない話

人の記憶というのは怪しいもので変なことは憶えているけれども、部分的にはあまりに忘れてしまっている。
kumicoさんのことを書こう。確か、kumicoさんだったと思う。後にkitの部屋をシェアしに来たのも「kumicoさん」だったと記憶するから、多分同じ名前だったんだろう。今になって気づいた。

kumicoさんと私はHampsteadで出会った。
Hampsteadはロンドンの中心地からやや北西にある一角で、落ち着いた雰囲気の良い住宅地だ。深い色をしたフラットのレンガの壁。ステンドグラスの入った小さな窓。細い通りに落ち葉でいっぱいのサークル、そこに古い木のベンチがあったりする。駅の近くにはちょっとオシャレなワインバー、それから“知的な”映画をやるミニシアター。その受付には、むちゃくちゃ綺麗な男の子がいたりした。Mayfairのような高級住宅地ではないけれども、静かで空気が良くて、全体的に「何だかレベルが高い」感じの街。
私はそのHampsteadの、フラットが並ぶ小さな通りの、落ち葉に包まれたサークルにあるベンチに座っていて、kumicoさんと出会った。チンケな小説みたいだけれども、本当なんだから仕方がない。

その前に、用も無いのになぜ私がHampsteadにいたかという話を。
それは、私が暇つぶしに自分で用を作っていたからだった。
Hampsteadのチャーチでピアノを弾きに来ていた。というと、これまたウソみたいだけれども、本当の話。
ロンドンの町にはあちこちにチャーチがある。ある日、あまりの暇さゆえ私は特に理由もなくHampsteadを訪れ、町並みが気に入り、チャーチに勝手に入り、ピアノを見つけた。誰もいなかった。それでピアノを弾いた。弾いたといっても楽譜を持っていたわけではないし、多分あまり憶えてなくて、しかも恐ろしく下手くそに弾いていただけだ。
けれども退屈していた私には良い発見だった。それで、何度か通おうと決めた。そのチャーチは本当に誰もいなくて、そしてドアがいつも開いていたのだ。
ある時、ピアノを弾いていると、牧師さんが入ってきた。それから珍しく若い女性も1人入ってきた。
牧師さんは私の近くに寄ってくると、「音楽の学生なのか」と聞いた。私は「違う」と答えた。
「ピアノを弾いてもいい?」そう訊ねると、彼はペラペラペラペラと返事をした。反応から見て「NO」と言われた気はしなかったけれども、ペラペラペラと続く話が何なのだか実は私にはわからなかった。
ともかく彼は微笑んで去り、私は後から入ってきた若い女性に聞いてみることにした。

イギリス人は目が合うとニッコリ笑う。必ず微笑んでくれる。そんな風にできるのは大人な感じがすることもある。ほんと、こんなに他人に無愛想にしてられるのは日本が島国だからだよね、と思ってみたけれども、イギリスも島国なのだった。

私がその若い女性に近づくと、彼女もニッコリと笑った。そこで私は、さっき彼が何を言ったのか教えてくれ、と聞いてみた。「私はピアノを弾いてもいいの?」
「もちろん」と彼女は答えた。「あなたは、いつでも、何曜日でも、来て自由に弾いていい」
私は憶えている。彼女の鼻ピアス。ファッションなども普通の感じの人だったので、なんだか印象的だったんだ。

さて、話を戻してkumicoさんへ。
kumicoさんと出会ったのは、そのHampsteadのチャーチの近くのベンチにぼんやりと座っているときだった。黒いジープがあって、女の人と大きな犬がやってきた。
犬はボルゾイという種類。大きくて細くて、背中が弓形にまがった犬だ。ちなみに、ロンドンに来る前に少しだけ付き合って別れた人が欲しがっていた犬だった。
私とkumicoさんは目が合うと、イギリス人風にニッコリとし、そして「日本人ですか?」と声をかけたのがどちらかは忘れた。ともかく、私たちはともに日本人で、彼女はHampsteadの私が座っていた目の前のフラットに住んでいて、そしてこれからHampstead heathに犬を散歩に連れていこうとしていた。
「一緒にいかない?」と言われて、私は誘いに乗った。

Hampstead heathはロンドン北東部に広がる丘だ。公園という規模ではなくて、本当に丘。入り口はどうだったのか、とか、そこまでに至る過程のことは、まったく記憶にない。kumicoさんは黒いジープを運転した。
憶えているのは、犬の名前。「カーガン」といった。ロシア語か何か。それから、散歩の途中でカーガンが行方不明になったこと。散歩というよりは、放し飼い。最初のうちカーガンは定期的に私たちのほうに戻ってきたりしていたが、やがて姿が見えなくなった。名前を呼んでも戻らないので、私たちは林のほうに探しに歩いた。
憶えているのは、そこには犬のレスキューみたいな人々がいること。kumicoさんは途中でそうした人たちに電話で連絡をとった。
憶えているのは、その1986年当時、すでに彼女が携帯電話を持っていたこと。British Telecomの。小型のカセットデッキくらいの大きさがあり、電話代がむちゃくちゃ高い、と言っていた。

しばらくしてカーガンは林のなかでブラブラしているのが見つかった。kumicoさんは「naughty boy!」と叱った。なんでこんなこと憶えているんだろう?
なのにそれからどうしたのかは、まったく記憶にない。家に戻って、ご飯でも食べて帰ったのかな? 当時住んでいたのはGolders greenで、そして、あのKings' Crossの地下鉄火災事故が起きたのが、その日だったかどうかは忘れた。帰りの遅かった私を、その事故に巻き込まれたのではないかと、同居人が心配したんだった。多分、この最初の日ではない。それはまた別の日だ・・・。

Sunday, December 31, 2006

Taking Tiger mountain by strategy

Monday, December 25, 2006

Death will keep us together つづき

彼女のお墓は神楽坂にあった。あるとき、私はひとりでそこを訪ねた。曇った日。ひとりで墓地に行き、お線香をあげた。彼女のお墓には少し前にやってきたんだろう、お花やいろいろなものが置いてあった。そこには英語で書かれたメッセージもあった。おそらく、あの優しいダンナ氏の。
彼はどうしているんだろう。奥さんに自殺された彼。あのあと彼女に何があったのか、二人に何があったのか、私は知らない。何となく手紙も出さずにいたんだ。少しくらいは手紙のやりとりがあったかな・・・。あまり憶えていない。
優しい英語のメッセージを見て、私はその場でひどく泣いた。
死にたかったのは、私だ。死にたいのは、私だ。なんで彼女が死ぬんだろう。いつでも、死にたかったのは私なんだ。
ひとしきり泣いた。

墓地を出て通りを歩いていると、反対側の歩道に何やら様子のおかしい猫がいた。誰かが車道にいたのを歩道にひっぱりあげていったのだけど、何やら様子がおかしい。思わず気になって、道を渡った。
行ってみると、それは車にひかれた猫だった。外傷はあまりないのだけど、動けずに苦しんでいる。口から少し血を出してうなっていた。私はパニックになった。
どこが痛いのかわからないので、うかつには動かせない。必死になっていると、通りがかった男の人が覗き込んできた。
よく思い出せない。その男の人。それに前後して小学生くらいの男の子。段ボールを担架にするのを手伝ってくれた気がする。通りの向こうに動物病院。猫を運んで反対側に渡った。でも病院の呼び鈴を押しても返事はなかった。声をかけてきた男の人が、ほかの動物病院を探してくれた。何やら必死の私に、小さな女の子を連れた女の人も声をかけてくれた。
その間、私は猫の後頭部を軽くなでていた。猫の目は据わっていて、ときどきうなり声が大きくなったり、発作的にもがいたりした。目を閉じたりはしなかった。もうこの猫は助からない。私だってそう思った。だけど、死ぬにしても、すぐに死ぬことはないだろう。何日もこの状態で苦しんで死ぬなんてことは想像したくなかった。すぐに息絶えたなら、どこか神楽坂の街にまだ少し残る地面にこっそりと埋めてあげる。でもこの猫はすぐには死ねない。それが私をうろたえさせた。
少しして、ようやく少しいったところに動物病院があることがわかった。タクシーをとめて乗り込もうとすると、女の子を連れた女性が千円札をくれた。「何かの助けに」 それと連絡先。
私はありがたく受け取った。それから男の人も一緒に来てくれた。
・・・何やら必死だったんで・・・・
もう、それ以外に理由なんてないんだろうな。助けてくれたいろいろな人たちには。そんな風に思う。

病院に行くと、猫は背骨が折れていた。痛み止めを打ってもらい、眠っていた。医者は、手術をしても治らないだろう、と言った。治っても半身不随になると。よく考えて、と言われ、ひとまずその日はそこに預けることにした。
医者からの帰り道、私は助けてくれた男の人とバスに乗っていたことを憶えている。何かあれば、とその人は連絡先の名刺をくれた。

翌日、私は仕事で日比谷公園にいた。仕事を終えて、人と待ち合わせをしていて、そしてその間に動物病院に電話をした。
前の晩、私は考えて、半身不随の猫を引き取る決意などしていた。ほとんど無謀だったけれど、何とかなると。
けれども電話に出た医者は、やはりもう安楽死をさせるのがいいと思う、と言った。そして、もう一度顔を見に来てあげますか?と聞いた。それを聞くなり、電話口で私は泣いた。ただ泣いた。何も言えず、ただ泣いた。
引き取るのは負担が大き過ぎて無理だろう、と医者は言った。見たところ、ノラみたいだし、若くもない猫だ、このまま死なせてあげるのがいい。
電話を切って、私は日比谷公園のベンチで泣いた。わんわん泣いた。
何を悲しんでいるんだろう。哀れな猫の運命を思って泣いたのか。かわいそうな、かわいそうな、名もない猫。
待ち合わせにやってきた友人は、泣いている私を見て驚いた。

後になって、その話を聞いた別の友人は、それはSが猫が欲しかったんだよ、と言った。自殺してしまったS。私を連れていく代わりに、猫を連れていった。おそらくあの墓地であんなにネガティヴだった私は、何かそういうものを拾ってきてしまったんだろう。それが私と死にゆく猫を引き合わせた。私を悲しませた。私を泣かせた。
きっとそう。Sちゃんは猫が欲しかったんだ。

そうして柳町にある動物病院に私は再び訪れ、最期の別れをした。眠っている猫を見て、私は再び泣いた。かわいそうに。かわいそうに。神様に愛してもらいな。
獣医師も同情して、かかった費用を半分は負担してくれた。
・・・何やら必死だったんで・・・・
本当にそんな感じ。
後日談としては、助けてくれた男性に経緯を連絡した。本当に良い人で、少しお金を持つと言って振り込んでくれた。So good heart! 
それから私はタクシー代をくれた母子にも、お礼とともに顛末を知らせるハガキを送った。数日後にその人も返事をくれた。そして私をほめてくれた。久々に感動したと。

私はただ哀しかったんだ。
自分が生きていることも、何かが死ぬことも、かなしかったんだ。
Love will tear up apart, Death will keep us together.
そんな歌を歌った人も自殺してしまった。ずっとずっともう何年も前の、私たちのカリスマだ。それを再現した映画(というか彼は脇役)で、その役者が本人にあまりに似ていて私は驚いた。
それはともかく、
神楽坂の猫事件。ロンドンで死んだ友人は神楽坂で眠っている。

Love will tear us apart

かなり時間がたってしまいました。
いつでも時間はたっている。

Londonのことを思い出すとき、必ず一緒に考えることがある。忘れてはならない、というか、忘れない。人は案外忘れないものです。
仮に彼女をSとしましょう。Sちゃん。若かりし頃の友人。彼女は死にました。もう10年以上も前に。
Neo psycheが大好きだった。Bauhausとかね、Danse Societyとかね。そのへん。いろいろと録音してもらったものだよ、テープに! そう、カセットテープです。
よく憶えているのは、夜遊びしてうちに泊ったとき。話している最中に突然眠ってしまった。それなのに翌朝あまりに肌がきれいで、すごく羨ましかった。お腹のなかにいるのときにお母さんが氷砂糖をたくさん食べたから肌がきれいなのだ、と彼女は言った。そうだ、そんなことさえ憶えている。
彼女とは当時関わっていた雑誌で知り合った。あるとき彼女がやってきて、雑誌を手伝うことになったんだ。そのあと彼女のほうが本格的に関わることになった。それはそれでまたいろいろと大変で、あまり良い結末にはならなかったんだけど。でもまぁそんなわけで私たちは知り合った。
彼女は何度もロンドンに行っている人で、Boy Georgeとかそのアタリとも知り合いだった。CultureClubがブレイクする少し前。でもほとんど現地ではブレイクしていたのかもしれない。
私はもっばらPOPなもの専門だったんだけど、彼女はもう少しハードなものをいろいろと教えてくれた。そして私はいわゆるalternativeのほとんどのものがPOPであることを知った。そう、たとえば、Bauhausとかね!!

いろいろ。いろいろ。本当にいろいろ。
そして私がロンドンにいるときに、彼女もまたやってきた。旅行ではない。彼女は結婚をすることになったんだ。相手は一時音楽もやっていたイギリス人。バンドはそれほど売れなかった。インディーズでマニアックなファンがついた程度。だからそのときにはもう音楽はやっていなかった。
長いこと手紙のやりとりでふたりは付き合っていた。そしてある日、プロポーズされた。それもすごい話なんだけど。

ともかく私がロンドンにいるときに彼女はやってきて、そして結婚式を行った。場所はどこだったか忘れてしまった。サウスだったか、イーストだったか・・・・。私はほかの友人を誘ってチャーチの式に参加した。古着の白いワンピースを着て。that petrol emotionのバンドのメンバーも来ていた。音楽仲間なんだ。それからみんなは近くのパブに流れて、そこでしばしご歓談って感じ。気さくなパーティ。ちなみに彼女の両親は離婚をしているのだけど、そのときはふたりそろってロンドンまでやってきた。幸せな日だった。

一度だけ私は彼女たちの新居に遊びに行った。ロンドン市内にある公団のような建物の小さな家だったけれど、全体に白い感じの部屋で、とてもキュートだった。日本の家は小さいといわれるけれども、イギリスの、少なくともロンドンの家もかなり小さい、ことも多い。実にコンパクト。
私と彼女はそこで一緒にカレーを作ることにした。でも、カレールーのないカレーなんて私は作れない。適当にパウダーで作ったけれども、これが信じられないくらいまずい。そこで私は途中で日本モノも置いてありそうなスーパーにバスに乗って買出しに出たりした。結局見つからなかったけど。
そんなわけで激マズい薄いカレー味のようなスープのようなものを私たちは3人で食べた。まずい、まずい、という私に、ダンナ氏は「おいしいよ」と笑顔で言ってくれた。やさしい人。いかにもイングリッシュマン。

それからしばらくして、私がお金がつきて日本に帰ることになったとき、彼女とダンナは出発の日にわざわざ私の家まで訪ねて来てくれた。嬉しかった。
あまりの家の汚さに、そのダンナも呆れていた。そのときにKitは留守だったので、私は手紙を残すことにした。
「こんなにすばらしい部屋をありがとう」って書けば? と彼は皮肉なジョークを言い、私たちはみんなで笑った。
それが彼女たちに会った最後になった。

そんな別れから数年が過ぎて、訃報は突然に届いた。昔の雑誌仲間の男の人から。どうして知ったのか、あるとき突然に電話があって、彼女が死んだことを知らされた。自殺だと言った。
あまり詳しいことはわからなかった。墓参りをやるから来ないか、とその人は言った。昔の人たちが集まると。私はそのときあまり良い状態ではなかったので、昔の知人に会うのはいやだった。だからお墓のある場所だけ教えてもらい、ひとりでいくことにした。

to be continued

Wednesday, November 22, 2006

Heaven is waiting! むちゃくちゃロンドンライフ

ここで唐突にフラッシュバックしたように、なぜか遠い昔のロンドンでの生活について書きます。
見たライブ:wire, that petrol emotion, test department, jesus and merrychain, bolshoi・・・その他いろいろ。michael clark and companyも見た。すばらしかった。

私がロンドンに旅立ったのは確か1987年のことで、個人的にはBritish new vwave POPの黄金期は1983年だったので、自分のなかでも音楽マニアの妄想がややピークを過ぎていた頃だった。そんななかダメ押し的に、ある日私はロンドンに向かったのだ。
そう。それにしても、1983年はインディーズ・ポップの名曲が豊作の年だった、と記憶している。depeche modeは"everything counts"を出したんじゃなかったか。tears for fearsは? aztec cameraは? lotus eatersは? danse societyは"heaven is waiting"ではなかったか?・・・・

さて、それはさておき、ロンドンでは最初westhampstedの友だちのフラットに転がり込んだ。その後、人間関係がメンドーだったり、多少のトラブルにあったりしながら、golders green,bayswaterなどを転々としたあと、最後には私はwesthampstedのマンション(珍しくmanshionなのだ)の一室、ゴミ溜めの中で暮らしていた。そこはまぁ何というか、いわゆるゴミ屋敷。kitというナゾの男の家だった。

たいてい向こうの家はフラットで、共同の玄関を鍵をあけて入ると、部屋はそれぞれに鍵がついていて、その一部屋を借りるかたちで暮らしている。いくつかあるキッチンやパスルームを何人かでシェアをする。そんな感じ。
でもkitの家はいわゆる「マンション」で、共同のエントランスがあって、鍵をあけてそこに入ると、各家の玄関がある。日本のマンションとまぁ同じ。kitのマンションは各フロア2軒ずつというつくりだった。
家は、早い話が3LDK。玄関横に広いリビング、ベッドルームか3つ、バス・トイレ、廊下の一番奥にキッチン。イギリスの家なので、もちろん広いバックヤードがあって、キッチンの窓から見降ろすことができた。
家としては、良い家だった。けれど、そこはゴミ屋敷だった。家の半分はよくわからないガラクタやゴミで埋まっていた。Kitはwest hampsteadのmill laneという通りに小さなリサイクルショップもどきをやっていて、そこの在庫っていうんですか? しょ〜もないゴミっていうんですか? それを家に置いていたんだ。しかも、そのゴミに埋まった家の中には、実はeddieという、これまた意味不明なおやじも住んでいた。あまりに静かな住人だったので、私は後になってそれに気づいた。

ともかく私はその家の一番良い部屋、広い広いリビングを借りることになった。安かったから。赤い壁の、高い天井の、暖炉があり、張り出し窓のついた、本当はとても良い部屋。といっても、部屋の半分はゴミで埋まっているんだけどさ。おまけにドアもなかった。
ドアをつけろ、というとkitは下の倉庫から外したドアをもってきて、とりつけてくれた。鍵もつけろ、というと、苦笑しながらつけてくれた。それから「冷蔵庫が欲しい」というと、どこかから中古の冷蔵庫を運んできた。
ガスも無かったので「信じられない」というと、ガス屋がやってきた。でもkitはあまりに家が汚いので本当は誰も中に入れたくなかったみたいだ。やってきたガス屋は「what a mess!」「oh dear!!」としきりにつぶやいた。それでもガスが使えるようになった。

憶えているのは、家にやってきた最初の頃のこと。まずはリビングの一画に自分の住めるスペースを自分で作ることにした。大きなものを部屋の隅によけて、掃除。友だちの家から数日通って部屋を作った。
「掃除機がほしい」というと、キットの店の子が探してくれたりもしたけれども、すぐには来なかった。それで私は同じマンションの上だったか、下だっかの住人に借りることを思いついて、上だったか、下だっかの家をノックしたんだ。
そこには老夫婦が住んでいて、私が「kitの家の部屋を借りることにした。つきましては掃除機を貸してくれませぬか」と言うと、表情がにわかに堅くなり、「アナタ、入りなさい」とばかりに私を家にひっぱり込んだんだ。そしてお茶など出しながら、アナタはどこからの来たの? いくつなの? 学生なのか? ここで何をしているのか? どうしてあの部屋を借りることになったのか? などなど、尋問が始まった。(ちなみに、私がkitの貸ルームを見つけたのはタバコ屋の張り紙だった。)
それで、ともかく適当に質問に答えて、私は「家がとても汚いから掃除をしたい。でも掃除機がないから、貸してもらえないだろうか」と言った。
すると「ええ、そりゃあ汚いでしょうとも」とそのおばあちゃんは言った。だから、最初はホウキとちりとりを貸してあげるから、それで大きなゴミをまずとりなさい、と。それでキレイなったら掃除機を貸してあげる、と。しごくまともに。
私は「Sure!」と了解した。

借りたホウキとちりとりで部屋のゴミをとって掃除をしていると、夕方近くになってkitが家にひょっこりと戻ってきた。それで、やぁ掃除をしているのか? なんて機嫌良く言ったんだ。そこで私は「このホウキとちりとりを上のおばあさんに借りたの」とこれまた機嫌良く報告をした。そして、ではでは大きなゴミはとれたのでホウキを返しに行ってきます。掃除機を借りてきま〜す、と老夫婦に家に向かった。
「キレイになりました」とホウキとちりとりを返すと、おばあさんは「本当に? 見てもいい?」と言った。「why not?」私はおばあさんを従えて、家に戻った。
ところが、私がおばあさんと一緒に戻ってきたことに気づいた途端、kitはひどく慌てて、ドアを押さえておばあさんを入れさせてくれなかった。私が入ったあとにすぐにドアを閉め、3センチくらいだけ開けた隙間から、「ホウキとちりとりをありがとう。彼女にはボクが掃除機を貸すからいいよ。thank you」とだけ言うと、そのままドアを閉めてしまったんだ。
「なんで!!」私が怒ると、kitは「この家が汚いのは有名なんだ。それで通報されたなくないんだ」というようなことを言った。そして「掃除機はボクが何とかするから、誰もこの家には入れてはないけないよ」なんて話になったのだった。
つまり、家のなかのゴミの山は他の住人にもバレていて、そのことで他の住人とモメたくないというのが彼のスタンス。
私は機嫌悪く怒っていたんたけど、後日、彼は中古のフーバーを買うお金を私にくれた。私はストリートマーケットで、安い中古のものを見つけた買った。

kitは何だかとてもやさしいヤツだった。しょうもない人だったけれど。悪い人ではなかった。やさしい人だった。それなのに私はずいぶんと彼に冷たい態度をとっていたな。なんだか、とても申し訳ない気持ちが今になってしている。いや、本当に。

後日談としては、その後バイトで知り合った日本人のクミコさんという女性が、物好きにもkitの家の別の部屋を借りるといってやってきた。何よりも安いのが魅力だったんだ。
彼女は私よりも徹底していたので、借りる部屋のゴミをすべてかき出して(その部屋は狭い子供部屋だった)ピカピカにふき掃除をすると、床を緑色のペンキで塗ったりもした。すばらしい。廊下は部屋から運び出したゴミで埋まってしまったけれども、ともかく、彼女がやってきて、家をシェアするメンバーに加わった。
ただ、それからしばらくして、私はお金がつきて日本に帰ることになった。どのくらいしばらくしてからかはあまり憶えていない。
私がいなくなったら、その家を出る、というようなことをクミコさんは言っていたし、その後どうなったかは忘れてしまった。
憶えているのは、出発の日、家には今は亡き私の友人とそのダンナがわざわざ見送りに来てくれたこと。そして友人のひとりが空港まで一緒に来てくれたのだけど、乗り込んだキャブの調子が悪くて、途中で車を変えて空港に向かったこと。
それからそれから、ともかく長い長い旅路を経て、なんとか成田に私は帰りついたのだった。
9ヶ月ぶりの帰国だった。

Friday, November 17, 2006

captain sensible


なぜかキャプテン・センシブル。大好きだった。元damned。この7インチシングルが先に見つかったので、突如として登場。
この不愉快なジャケ。センスのかけらもない。でも、この曲も泣ける名曲です。私はコレ、ロンドンの中古レコードフェアで買いました。50pでした。
この人で有名なのは、やっぱり「happytalk」。南太平洋という映画主題歌のリメイクだった。

Saturday, November 11, 2006

killing joke

なぜかキリング・ジョークを真っ先に思い出した。私はそれほどたくさん聞いていたわけではないんだけど。続きはのちほど書きます。

what difference does it make?

六本木トンネルの近く、今ではヒルズの近く。オリエンタルビルの地下にあったCLIMAX。かつて、80年代にブリティッシュ・ニューウェイヴ(以下BNW)音楽がかかる貴重な店、でした。なんたって、当時は、インターネットはもちろん、携帯も、パソコンすら普及していなかった時代。あー、信じられない。この20年間の時代の生証人として私は語ろう! ほんま、世界は急速に変わった。

で、当時、世界はふたつしかなかった。「普通のもの」と「アンチ普通のもの」、「メジャーなもの」と「マイナーもの」、「JJ」と「anan」、「根あか」と「根クラ」、「丸金」と「丸ビ」、「アメリカ」と「その他」・・・
あ・・・なんというか、さらに恐ろしいことに、当時は、世界がふたつしかないことにすら気づいていなかった人が多かったんだ。普通に、メジャーであるものがすべてだと思っている人すら珍しくはなかった。同じようなファッションしかなくて、同じような人生観しかなくて。なんたって今みたいに情報も無かったので、よほどの努力やカンを働かせない限り、アナザー・ワールドの入り口に気づくことすらなく生きていた人がいっぱいいたんだ。

ということは、今の40代前後世代の何人かは、そうした平坦な人生を送ってきた大半の人たちのその後、ということになるのかな。
いやいや、今、ここに生きていれば、イヤでも「ほかのもの」に気づくようになるさ。
と信じたい。

んでもって、世の中はアメリカン・ヒットチャートに支配されていた世界で、イギリスやドイツのもの、PUNKの名残りやテクノ、ニューロマンチック、エレポップ、ネオサイケ、えーと、ノイズ、インダストリアル・・・などなど、いわゆるindependent系の音楽、アンダーグラウンド、というか、マイナーというか、オルタナティヴというか、つまり「NEW WAVE」な音楽を愛する一握りの人たちが夜遊びする場所が、六本木CLIMAX、そして、新宿TSUBAKI HOUSE on Tuesdayでありました。
なんでツバキは火曜日かというと、火曜日は「London nite」だったからさ!! 確か「Night」ではなく、「Nite」だったと記憶している。パスポートみたいなカードがあったと記憶している。
ああ、懐かしき日々。火曜日はツバキ、その他の日はクライマックス、と。子供たちは集まったのだ。ごく一部の。

ここではそんなことに関連した四方山話を書きます。
みんな、生きている? 
みんな、どこにいるの?