Japanese Whispers 1 よくわからない話
人の記憶というのは怪しいもので変なことは憶えているけれども、部分的にはあまりに忘れてしまっている。
kumicoさんのことを書こう。確か、kumicoさんだったと思う。後にkitの部屋をシェアしに来たのも「kumicoさん」だったと記憶するから、多分同じ名前だったんだろう。今になって気づいた。
kumicoさんと私はHampsteadで出会った。
Hampsteadはロンドンの中心地からやや北西にある一角で、落ち着いた雰囲気の良い住宅地だ。深い色をしたフラットのレンガの壁。ステンドグラスの入った小さな窓。細い通りに落ち葉でいっぱいのサークル、そこに古い木のベンチがあったりする。駅の近くにはちょっとオシャレなワインバー、それから“知的な”映画をやるミニシアター。その受付には、むちゃくちゃ綺麗な男の子がいたりした。Mayfairのような高級住宅地ではないけれども、静かで空気が良くて、全体的に「何だかレベルが高い」感じの街。
私はそのHampsteadの、フラットが並ぶ小さな通りの、落ち葉に包まれたサークルにあるベンチに座っていて、kumicoさんと出会った。チンケな小説みたいだけれども、本当なんだから仕方がない。
その前に、用も無いのになぜ私がHampsteadにいたかという話を。
それは、私が暇つぶしに自分で用を作っていたからだった。
Hampsteadのチャーチでピアノを弾きに来ていた。というと、これまたウソみたいだけれども、本当の話。
ロンドンの町にはあちこちにチャーチがある。ある日、あまりの暇さゆえ私は特に理由もなくHampsteadを訪れ、町並みが気に入り、チャーチに勝手に入り、ピアノを見つけた。誰もいなかった。それでピアノを弾いた。弾いたといっても楽譜を持っていたわけではないし、多分あまり憶えてなくて、しかも恐ろしく下手くそに弾いていただけだ。
けれども退屈していた私には良い発見だった。それで、何度か通おうと決めた。そのチャーチは本当に誰もいなくて、そしてドアがいつも開いていたのだ。
ある時、ピアノを弾いていると、牧師さんが入ってきた。それから珍しく若い女性も1人入ってきた。
牧師さんは私の近くに寄ってくると、「音楽の学生なのか」と聞いた。私は「違う」と答えた。
「ピアノを弾いてもいい?」そう訊ねると、彼はペラペラペラペラと返事をした。反応から見て「NO」と言われた気はしなかったけれども、ペラペラペラと続く話が何なのだか実は私にはわからなかった。
ともかく彼は微笑んで去り、私は後から入ってきた若い女性に聞いてみることにした。
イギリス人は目が合うとニッコリ笑う。必ず微笑んでくれる。そんな風にできるのは大人な感じがすることもある。ほんと、こんなに他人に無愛想にしてられるのは日本が島国だからだよね、と思ってみたけれども、イギリスも島国なのだった。
私がその若い女性に近づくと、彼女もニッコリと笑った。そこで私は、さっき彼が何を言ったのか教えてくれ、と聞いてみた。「私はピアノを弾いてもいいの?」
「もちろん」と彼女は答えた。「あなたは、いつでも、何曜日でも、来て自由に弾いていい」
私は憶えている。彼女の鼻ピアス。ファッションなども普通の感じの人だったので、なんだか印象的だったんだ。
さて、話を戻してkumicoさんへ。
kumicoさんと出会ったのは、そのHampsteadのチャーチの近くのベンチにぼんやりと座っているときだった。黒いジープがあって、女の人と大きな犬がやってきた。
犬はボルゾイという種類。大きくて細くて、背中が弓形にまがった犬だ。ちなみに、ロンドンに来る前に少しだけ付き合って別れた人が欲しがっていた犬だった。
私とkumicoさんは目が合うと、イギリス人風にニッコリとし、そして「日本人ですか?」と声をかけたのがどちらかは忘れた。ともかく、私たちはともに日本人で、彼女はHampsteadの私が座っていた目の前のフラットに住んでいて、そしてこれからHampstead heathに犬を散歩に連れていこうとしていた。
「一緒にいかない?」と言われて、私は誘いに乗った。
Hampstead heathはロンドン北東部に広がる丘だ。公園という規模ではなくて、本当に丘。入り口はどうだったのか、とか、そこまでに至る過程のことは、まったく記憶にない。kumicoさんは黒いジープを運転した。
憶えているのは、犬の名前。「カーガン」といった。ロシア語か何か。それから、散歩の途中でカーガンが行方不明になったこと。散歩というよりは、放し飼い。最初のうちカーガンは定期的に私たちのほうに戻ってきたりしていたが、やがて姿が見えなくなった。名前を呼んでも戻らないので、私たちは林のほうに探しに歩いた。
憶えているのは、そこには犬のレスキューみたいな人々がいること。kumicoさんは途中でそうした人たちに電話で連絡をとった。
憶えているのは、その1986年当時、すでに彼女が携帯電話を持っていたこと。British Telecomの。小型のカセットデッキくらいの大きさがあり、電話代がむちゃくちゃ高い、と言っていた。
しばらくしてカーガンは林のなかでブラブラしているのが見つかった。kumicoさんは「naughty boy!」と叱った。なんでこんなこと憶えているんだろう?
なのにそれからどうしたのかは、まったく記憶にない。家に戻って、ご飯でも食べて帰ったのかな? 当時住んでいたのはGolders greenで、そして、あのKings' Crossの地下鉄火災事故が起きたのが、その日だったかどうかは忘れた。帰りの遅かった私を、その事故に巻き込まれたのではないかと、同居人が心配したんだった。多分、この最初の日ではない。それはまた別の日だ・・・。
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