CLIMAX & London Nite

what difference does it make? 六本木トンネルの近く、今ではヒルズの近く。オリエンタルビルの地下にあったCLIMAX。かつて、80年代にブリティッシュ・ニューウェイヴ(以下BNW)音楽がかかる貴重な店、でした。なんたって、当時は、インターネットはもちろん、携帯も、パソコンすら普及していなかった時代。あー、信じられない。この30年間の時代の生証人として私は語ろう! ほんま、世界は急速に変わった。

Friday, January 26, 2007

Japanese Whispers 3 よくわからない話

kumicoさんと再会したのは、何がきっかけだったんだろう。
おそらく、私が連絡をしたのだろう。なぜなら彼女には携帯があるけれども、私にはない。それに私はしばしば住居を変えている。連絡をしたのは、kitのゴミ屋敷に引っ越した後だったと思う。(ちなみにkitの家には電話があった)
そのころには、さまざまなストレスに耐え、いや、実のところ耐え切れず、私は過食に走り、ずいぶんと太っていた。久々に再会したkumicoさんは、開口一番「太ったね〜」と言った。

そのときにはもう赤ちゃんは生まれていた。男の子で、名前をakira君と名づけられていた。最初にその赤ちゃんを見たときのことなど、肝心なことは本当に記憶から欠落している。
それでも再び私はHampsteadの彼女のフラットにいき、ベビーシッターをやることになった。
昼間、彼女たちが出かけたときには赤ちゃんと留守番をして、子どもを抱いてHampsteadの知的なシアターの前まで行ったりした。そこの綺麗な男の子と話したくて、実際に友だちとの約束もあって、赤ちゃんを抱いたまま、彼に「ここに小柄なJapanese Girlが来なかったか?」なんて聞いてみたりもした。(実は、この彼とは人づてにつながりがあるのだった。それはまた別の話)

ちなみに再会したときに、家には同居人の彼女はいなかった。kumicoさんの話によれば、恋人ができて引っ越したとかそんな感じで、でも二人もうまくはいってなかったのかなという印象を受けた。おそらく、私があまり親しくできないことに、彼女も気づいていたんだろう。
そんなわけで、私はベビーシッターとして、空いた子ども部屋に泊ったりもした。

そのころになると、kumicoさんは次第に経済的に厳しい状況になってきていた。それが実際にどの程度逼迫していたのかはわからない。仕事をしなくては、と彼女はいい、実際にコンパニオンみたいなことをしたりもした。シンプルだけど綺麗な顔立ちの人だったので、厚化粧をするとものすごく雰囲気が変わった。一度だけ、私はその姿を見た気がする。

ある時、私はまた彼女の家にいて、ベビーシッターを頼まれていた。その日は仕事ではなく、Didierとのデートで食事に行くため、私は留守番を頼まれたんだ。戻り時間を約束して、私はAkira君とカーガンと家に残った。
けれども、いくら待っても彼女たちは戻ってこなかった。そのとき私が住んでいたWest HampsteadとHampsteadまではミニ・バスが通っていて、それに乗れば一本で行けた。ただし、それに乗れないと地下鉄を乗り継いだように記憶している。しかも、私の家(つまりkitの家)は地下鉄の駅からはひどく遠かったんだ。
結局ふたりが戻ったのは、約束の時間よりも2時間近く遅れてからだった。
私はひどく不機嫌に彼らを迎えた。けれども彼らには、私が腹をたてていることが心外だったみたいだ。そして、とっくに電車もなくなっているし、私は彼らが私のためにキャプを出してくれると思っていたけれど、そんな気もないようだった。
ムっとしている私に、kumkicoさんはとりあえず電話をしてキャブを呼んでくれた。向こうのミニ・キャブは頼んだ時点で行き先を言い、値段を交渉する。いくらいくらだけどいい? とkumicoさんは私に訊ねた。「私が払うの?」私はひどく頭に来た。けれどもそれをはっきりと言うことができなかった。ベピーシッター代も、当初の話よりも少なかった気がする。でも、それについても機嫌の悪い顔をすることしかできなかった。ただ私はひどく傷ついた。そういう思いやりというか、理屈ではない部分で人の配慮を期待して裏切られると、一番傷つくのだ。それは私の勝手なのだけど。
結局どちらがキャプを払ったのか、記憶はひどくあいまいだ。どんな風にキャプに乗って、どんな風に帰ったのかについて、本当に何も思い出せない。ただひどく不愉快で、ガッカリした気分だったことだけは確かだった。

それから数日後、私は電話でkumicoさんと話している。おぼろげな記憶を辿れば、おそらく私が電話をしたのだ。
気まずい思いのまま数日。私は不愉快な思いをしたけれど、同時にそんな自分に対する自己嫌悪の気分にかられた。私は自分の態度にkumicoさんも怒っているのではないかと、気になっていたんだ。
結局のところ、すべでは自己弁護だ。でも私は悪く無い、という。自分の正当性をわかってほしいだけ。つまり、なぜ機嫌が悪くなったのか、ちゃんと伝えたいと思った。それは要するに、親しき仲にも礼儀あり、みたいなことなのだけど。
電話からは、いつもと変わらない感じのkumicoさんが出て、私はホッとした。彼女は、今は手が離せないのでかけ直すと言い、電話はちゃんとかかってきた。
私は「イヤな思いをしたままなのはいやだったから」と話した。ベビーシッターがイヤなのではない。代金が少なかったら怒ったのでもない。ベビーシッターといっても何でも屋ではない。そのくらいは配慮してほしい。こちらの都合も考えて、時間は守ってほしかった・・・云々。
kumicoさんは「ごめん」と言ったものの、それほど悪いと思っている風でもなかった。あのあと彼女はDidierに、なぜ私が怒っているのか? と聞かれたそうだ。
「そういうところ、Didierはやっぱりこっちの人だから感覚が違うんだよね。お金を払って頼んでいるんだから、悪いとか考えないのだ」と彼女は言った。
ビジネスライクというか、何というか。悪いからとか、遠慮とか、そういう感覚がないのだ。
そんなものか、と私は思った。自分たちのことよりも、私の都合を優先して考えるなんてことはないのだ。しかもお金を払って頼んでいるのだから当たり前。黙っていても気を遣ってくれるだろう、なんていうのは日本人的な感覚。何時までに帰ってこい、と私は言うべきだったんだろう。何時以降はやりません、と。

ともかく、私たちはいろいろと電話で話した。kumicoさんはいつも変わらなかったし、私は自分の気持ちを伝えられて良かったと思った。
「またベビーシッターするから」と、私は言った。
「また遊びにきて」 kumicoさんは言った。

けれども、その電話以降、私はkumicoさんに会うことはできなかった。
その後、電話をしてもいつも留守だった。Hampsteadまで行ってみたが、家はやはり留守だった。メモをドアに置いておいたが、連絡はなかった。
数日後、私は再びHampsteadを訪ねた。呼び鈴を押すと人の気配がし、そしてドアがあいて顔を出したのは見知らぬ白人の若い女性だった。
「kumicoは?」 
そう聞くと、その女性は、仕事に行っている、と答えた。そして自分はベビーシッターをしているのだ、と。

静かなHampsteadの道を私は考えながら歩いた。
Kumicoさんは、もう私にベビーシッターを頼まない。
もしかしたら、私が思うよりもずっと彼女は金銭的に追いつめられていたのかもしれない。私はその彼女を責めてしまったのかもしれない。
もしかしたら、あれからDidierと何かあったのかもしれない。この前のことが、ささいだけれど彼女を切実にする何かのきっかけになってしまったのかもしれない。
それはすべて、私の憶測。自意識過剰の関係妄想だ。
でも私は思った。子どもを産んで育てる現実に、彼女の不安は的中していたんだろうか。

結局そのあともkumicoさんから連絡はなかった。私も電話をするのをやめた。Hamsteadに行くこともやめた。
そう、やめた。

Japanese Whispers 2 よくわからない話

kumicoさんの話は、考えれば長い。そんなに深い付き合いでもないのに。

それから私は時々kumicoさんを訪ねたりした。彼女の家はフラットのベースメントにあった。道から少し階段を下りた半地下にあって、広かった。広いリビング、広いキッチン、広いベッドルーム、広いバスルーム。それから、小さな子ども部屋と、洋服で埋まった物置部屋があった。
彼女は子ども部屋をシェアで貸し出そうとしていて、借りないか?と私に訊ねた。私も部屋を探していたけれども、家賃が高かったので断った。確かに、キッチンとバスルームも自由に使えるし、Hampsteadだし、高いに決まっている。
後日、kumicoさんは別の日本人女性を部屋を貸す相手として探してきた。名前も顔も、まったく思い出せない。大阪の人だったことだけ憶えている。私はその人をあまり好きにはなれなかった。

最初に会った日には気づかなかったけれども、実はkumicoさんは妊娠していた。当時で7ヶ月目くらいだったか。小柄で細い人だったので、まったくわからなかった。わかったのは、そうして訪ねていたある日、Hampsteadのカフェでお茶をしていたら、kumicoさんの知り合いのOld Ladyにばったり出会った。彼女は同じテーブルにやってきて、そしてふたりはペラペラペラペラとおしゃべりを始めた。残念ながら私の語学力ではその会話についていくことはできなかったのだけれど、Old Ladyはときどき私を見て微笑み、私も微笑み返したりして、しばらく会話は続いたのだった。
で、彼女が先に席をたったあと、kumicoさんは「今の会話でわかったよね?」と言った。「実は赤ちゃんがいるんだ」

kumicoさんには、そのときDidierというフランス人の恋人がいた。確か写真家だった。大きな目をしたやさしそうな人で、いかにもフランス人らしく甘い雰囲気がした。シャイな感じて私たちはお互いに人見知りをしたけれども、悪い人ではなかった。
kumicoさんのお腹にいるのは、このDidierの子どもではなかった。それがふたりには大きな悩みの種だったんだ。
ところで、彼女はどんな風に暮らしていたかというと、どうもコーディネータのような仕事をしているらしかった。日本にいるときには、●bandという、まぁ名前を聞いたことがあるかな・・・みたいな日本のバンドと関わっていて、そういう興業とか、制作に関連するフリーのコーディネーターという感じだった。私が出会ったときはほとんど仕事をしていなかったけれども。
で、それでは彼女のお腹にいるのは誰の子どもか、というと、そのバンド関係の人だったように記憶している。かつて彼女はそのバンドの人と付き合うか結婚をし、そして別れていた。それが仕事絡みで日本に戻ったときに、たまたまヨリが戻ってしまい、妊娠した。妊娠に気づいたのはロンドンに帰ってからだった、といった話だった。
彼女は子どもが欲しいし、できれば日本人の子どもが欲しいと思っていた。理由は何だったろう? 多分、自分が日本人だからだろう。
だから子どもを彼女は喜んでいた。けれども、そのためにその日本人と結婚する気はまったく無かったんだ。なぜなら、今はナイーヴなDidierという恋人がいるから。Didierは彼女と生まれてくる子どもを受け入れているけれども、やはり自分の子どもでないことには抵抗があるみたいだった。どうする、Didier?
でも彼女はもちろん産むつもりでいて、同時にひどく迷っていた。

ある時(おそらくそれはもう少し後になってから)、私と彼女と彼女の家の同居人(子ども部屋の)とで、彼女の子どものことで議論したことがあった。私は、子どもに対して胸をはって生きていくことが大事だと思う、というようなことを言った。そうしてれば大丈夫だよ、なんて。子どもに対して迷う態度を見せてはいけない、なんて。
けれどもkumicoさん自身は弱気だったし、その同居人も、そんな私の強気な意見には同意しかねるようだった。もっとウェットな見解を持っていた。「迷ったり、悩むのは仕方ない」といった。それは確かに仕方ないさ。
今思えば、迷ったり、悩んだりしている人には、ただ迷ったり、悩んだりさせてあげるのが大事なんだ。励ましたり、諭したりすることなんて、大きなお世話だ。だって迷ったり、悩んだりすることしかできないのだから。
若造だった私はずいぶんデリカシーのない正論めいたことを言ってしまったんだろうな。(kumicoさんも同居の彼女も私よりも年上だった)
そう、今なら言える。悩んだりしている人は、決して答えやアドバイスなんて求めていないのだ。意見なんて聞きたくないのだ。だからただ「そうだね・・・」と答えるのが正しい。
そう今なら言えるけれど・・・。

そんな会話の一件があってから、私は少しkumicoさんたちと疎遠になった。そこの同居人と私はどうも気が合わない気がしたし、なんとなく気まずくなった。それに私自身も自分の友人関係でいろいろとあり、住むところを変え、ドイツに行ったりもあった。そうして、しばらく連絡をしなくなった。

Japanese Whispers 1 よくわからない話

人の記憶というのは怪しいもので変なことは憶えているけれども、部分的にはあまりに忘れてしまっている。
kumicoさんのことを書こう。確か、kumicoさんだったと思う。後にkitの部屋をシェアしに来たのも「kumicoさん」だったと記憶するから、多分同じ名前だったんだろう。今になって気づいた。

kumicoさんと私はHampsteadで出会った。
Hampsteadはロンドンの中心地からやや北西にある一角で、落ち着いた雰囲気の良い住宅地だ。深い色をしたフラットのレンガの壁。ステンドグラスの入った小さな窓。細い通りに落ち葉でいっぱいのサークル、そこに古い木のベンチがあったりする。駅の近くにはちょっとオシャレなワインバー、それから“知的な”映画をやるミニシアター。その受付には、むちゃくちゃ綺麗な男の子がいたりした。Mayfairのような高級住宅地ではないけれども、静かで空気が良くて、全体的に「何だかレベルが高い」感じの街。
私はそのHampsteadの、フラットが並ぶ小さな通りの、落ち葉に包まれたサークルにあるベンチに座っていて、kumicoさんと出会った。チンケな小説みたいだけれども、本当なんだから仕方がない。

その前に、用も無いのになぜ私がHampsteadにいたかという話を。
それは、私が暇つぶしに自分で用を作っていたからだった。
Hampsteadのチャーチでピアノを弾きに来ていた。というと、これまたウソみたいだけれども、本当の話。
ロンドンの町にはあちこちにチャーチがある。ある日、あまりの暇さゆえ私は特に理由もなくHampsteadを訪れ、町並みが気に入り、チャーチに勝手に入り、ピアノを見つけた。誰もいなかった。それでピアノを弾いた。弾いたといっても楽譜を持っていたわけではないし、多分あまり憶えてなくて、しかも恐ろしく下手くそに弾いていただけだ。
けれども退屈していた私には良い発見だった。それで、何度か通おうと決めた。そのチャーチは本当に誰もいなくて、そしてドアがいつも開いていたのだ。
ある時、ピアノを弾いていると、牧師さんが入ってきた。それから珍しく若い女性も1人入ってきた。
牧師さんは私の近くに寄ってくると、「音楽の学生なのか」と聞いた。私は「違う」と答えた。
「ピアノを弾いてもいい?」そう訊ねると、彼はペラペラペラペラと返事をした。反応から見て「NO」と言われた気はしなかったけれども、ペラペラペラと続く話が何なのだか実は私にはわからなかった。
ともかく彼は微笑んで去り、私は後から入ってきた若い女性に聞いてみることにした。

イギリス人は目が合うとニッコリ笑う。必ず微笑んでくれる。そんな風にできるのは大人な感じがすることもある。ほんと、こんなに他人に無愛想にしてられるのは日本が島国だからだよね、と思ってみたけれども、イギリスも島国なのだった。

私がその若い女性に近づくと、彼女もニッコリと笑った。そこで私は、さっき彼が何を言ったのか教えてくれ、と聞いてみた。「私はピアノを弾いてもいいの?」
「もちろん」と彼女は答えた。「あなたは、いつでも、何曜日でも、来て自由に弾いていい」
私は憶えている。彼女の鼻ピアス。ファッションなども普通の感じの人だったので、なんだか印象的だったんだ。

さて、話を戻してkumicoさんへ。
kumicoさんと出会ったのは、そのHampsteadのチャーチの近くのベンチにぼんやりと座っているときだった。黒いジープがあって、女の人と大きな犬がやってきた。
犬はボルゾイという種類。大きくて細くて、背中が弓形にまがった犬だ。ちなみに、ロンドンに来る前に少しだけ付き合って別れた人が欲しがっていた犬だった。
私とkumicoさんは目が合うと、イギリス人風にニッコリとし、そして「日本人ですか?」と声をかけたのがどちらかは忘れた。ともかく、私たちはともに日本人で、彼女はHampsteadの私が座っていた目の前のフラットに住んでいて、そしてこれからHampstead heathに犬を散歩に連れていこうとしていた。
「一緒にいかない?」と言われて、私は誘いに乗った。

Hampstead heathはロンドン北東部に広がる丘だ。公園という規模ではなくて、本当に丘。入り口はどうだったのか、とか、そこまでに至る過程のことは、まったく記憶にない。kumicoさんは黒いジープを運転した。
憶えているのは、犬の名前。「カーガン」といった。ロシア語か何か。それから、散歩の途中でカーガンが行方不明になったこと。散歩というよりは、放し飼い。最初のうちカーガンは定期的に私たちのほうに戻ってきたりしていたが、やがて姿が見えなくなった。名前を呼んでも戻らないので、私たちは林のほうに探しに歩いた。
憶えているのは、そこには犬のレスキューみたいな人々がいること。kumicoさんは途中でそうした人たちに電話で連絡をとった。
憶えているのは、その1986年当時、すでに彼女が携帯電話を持っていたこと。British Telecomの。小型のカセットデッキくらいの大きさがあり、電話代がむちゃくちゃ高い、と言っていた。

しばらくしてカーガンは林のなかでブラブラしているのが見つかった。kumicoさんは「naughty boy!」と叱った。なんでこんなこと憶えているんだろう?
なのにそれからどうしたのかは、まったく記憶にない。家に戻って、ご飯でも食べて帰ったのかな? 当時住んでいたのはGolders greenで、そして、あのKings' Crossの地下鉄火災事故が起きたのが、その日だったかどうかは忘れた。帰りの遅かった私を、その事故に巻き込まれたのではないかと、同居人が心配したんだった。多分、この最初の日ではない。それはまた別の日だ・・・。