CLIMAX & London Nite

what difference does it make? 六本木トンネルの近く、今ではヒルズの近く。オリエンタルビルの地下にあったCLIMAX。かつて、80年代にブリティッシュ・ニューウェイヴ(以下BNW)音楽がかかる貴重な店、でした。なんたって、当時は、インターネットはもちろん、携帯も、パソコンすら普及していなかった時代。あー、信じられない。この30年間の時代の生証人として私は語ろう! ほんま、世界は急速に変わった。

Sunday, December 31, 2006

Taking Tiger mountain by strategy

Monday, December 25, 2006

Death will keep us together つづき

彼女のお墓は神楽坂にあった。あるとき、私はひとりでそこを訪ねた。曇った日。ひとりで墓地に行き、お線香をあげた。彼女のお墓には少し前にやってきたんだろう、お花やいろいろなものが置いてあった。そこには英語で書かれたメッセージもあった。おそらく、あの優しいダンナ氏の。
彼はどうしているんだろう。奥さんに自殺された彼。あのあと彼女に何があったのか、二人に何があったのか、私は知らない。何となく手紙も出さずにいたんだ。少しくらいは手紙のやりとりがあったかな・・・。あまり憶えていない。
優しい英語のメッセージを見て、私はその場でひどく泣いた。
死にたかったのは、私だ。死にたいのは、私だ。なんで彼女が死ぬんだろう。いつでも、死にたかったのは私なんだ。
ひとしきり泣いた。

墓地を出て通りを歩いていると、反対側の歩道に何やら様子のおかしい猫がいた。誰かが車道にいたのを歩道にひっぱりあげていったのだけど、何やら様子がおかしい。思わず気になって、道を渡った。
行ってみると、それは車にひかれた猫だった。外傷はあまりないのだけど、動けずに苦しんでいる。口から少し血を出してうなっていた。私はパニックになった。
どこが痛いのかわからないので、うかつには動かせない。必死になっていると、通りがかった男の人が覗き込んできた。
よく思い出せない。その男の人。それに前後して小学生くらいの男の子。段ボールを担架にするのを手伝ってくれた気がする。通りの向こうに動物病院。猫を運んで反対側に渡った。でも病院の呼び鈴を押しても返事はなかった。声をかけてきた男の人が、ほかの動物病院を探してくれた。何やら必死の私に、小さな女の子を連れた女の人も声をかけてくれた。
その間、私は猫の後頭部を軽くなでていた。猫の目は据わっていて、ときどきうなり声が大きくなったり、発作的にもがいたりした。目を閉じたりはしなかった。もうこの猫は助からない。私だってそう思った。だけど、死ぬにしても、すぐに死ぬことはないだろう。何日もこの状態で苦しんで死ぬなんてことは想像したくなかった。すぐに息絶えたなら、どこか神楽坂の街にまだ少し残る地面にこっそりと埋めてあげる。でもこの猫はすぐには死ねない。それが私をうろたえさせた。
少しして、ようやく少しいったところに動物病院があることがわかった。タクシーをとめて乗り込もうとすると、女の子を連れた女性が千円札をくれた。「何かの助けに」 それと連絡先。
私はありがたく受け取った。それから男の人も一緒に来てくれた。
・・・何やら必死だったんで・・・・
もう、それ以外に理由なんてないんだろうな。助けてくれたいろいろな人たちには。そんな風に思う。

病院に行くと、猫は背骨が折れていた。痛み止めを打ってもらい、眠っていた。医者は、手術をしても治らないだろう、と言った。治っても半身不随になると。よく考えて、と言われ、ひとまずその日はそこに預けることにした。
医者からの帰り道、私は助けてくれた男の人とバスに乗っていたことを憶えている。何かあれば、とその人は連絡先の名刺をくれた。

翌日、私は仕事で日比谷公園にいた。仕事を終えて、人と待ち合わせをしていて、そしてその間に動物病院に電話をした。
前の晩、私は考えて、半身不随の猫を引き取る決意などしていた。ほとんど無謀だったけれど、何とかなると。
けれども電話に出た医者は、やはりもう安楽死をさせるのがいいと思う、と言った。そして、もう一度顔を見に来てあげますか?と聞いた。それを聞くなり、電話口で私は泣いた。ただ泣いた。何も言えず、ただ泣いた。
引き取るのは負担が大き過ぎて無理だろう、と医者は言った。見たところ、ノラみたいだし、若くもない猫だ、このまま死なせてあげるのがいい。
電話を切って、私は日比谷公園のベンチで泣いた。わんわん泣いた。
何を悲しんでいるんだろう。哀れな猫の運命を思って泣いたのか。かわいそうな、かわいそうな、名もない猫。
待ち合わせにやってきた友人は、泣いている私を見て驚いた。

後になって、その話を聞いた別の友人は、それはSが猫が欲しかったんだよ、と言った。自殺してしまったS。私を連れていく代わりに、猫を連れていった。おそらくあの墓地であんなにネガティヴだった私は、何かそういうものを拾ってきてしまったんだろう。それが私と死にゆく猫を引き合わせた。私を悲しませた。私を泣かせた。
きっとそう。Sちゃんは猫が欲しかったんだ。

そうして柳町にある動物病院に私は再び訪れ、最期の別れをした。眠っている猫を見て、私は再び泣いた。かわいそうに。かわいそうに。神様に愛してもらいな。
獣医師も同情して、かかった費用を半分は負担してくれた。
・・・何やら必死だったんで・・・・
本当にそんな感じ。
後日談としては、助けてくれた男性に経緯を連絡した。本当に良い人で、少しお金を持つと言って振り込んでくれた。So good heart! 
それから私はタクシー代をくれた母子にも、お礼とともに顛末を知らせるハガキを送った。数日後にその人も返事をくれた。そして私をほめてくれた。久々に感動したと。

私はただ哀しかったんだ。
自分が生きていることも、何かが死ぬことも、かなしかったんだ。
Love will tear up apart, Death will keep us together.
そんな歌を歌った人も自殺してしまった。ずっとずっともう何年も前の、私たちのカリスマだ。それを再現した映画(というか彼は脇役)で、その役者が本人にあまりに似ていて私は驚いた。
それはともかく、
神楽坂の猫事件。ロンドンで死んだ友人は神楽坂で眠っている。

Love will tear us apart

かなり時間がたってしまいました。
いつでも時間はたっている。

Londonのことを思い出すとき、必ず一緒に考えることがある。忘れてはならない、というか、忘れない。人は案外忘れないものです。
仮に彼女をSとしましょう。Sちゃん。若かりし頃の友人。彼女は死にました。もう10年以上も前に。
Neo psycheが大好きだった。Bauhausとかね、Danse Societyとかね。そのへん。いろいろと録音してもらったものだよ、テープに! そう、カセットテープです。
よく憶えているのは、夜遊びしてうちに泊ったとき。話している最中に突然眠ってしまった。それなのに翌朝あまりに肌がきれいで、すごく羨ましかった。お腹のなかにいるのときにお母さんが氷砂糖をたくさん食べたから肌がきれいなのだ、と彼女は言った。そうだ、そんなことさえ憶えている。
彼女とは当時関わっていた雑誌で知り合った。あるとき彼女がやってきて、雑誌を手伝うことになったんだ。そのあと彼女のほうが本格的に関わることになった。それはそれでまたいろいろと大変で、あまり良い結末にはならなかったんだけど。でもまぁそんなわけで私たちは知り合った。
彼女は何度もロンドンに行っている人で、Boy Georgeとかそのアタリとも知り合いだった。CultureClubがブレイクする少し前。でもほとんど現地ではブレイクしていたのかもしれない。
私はもっばらPOPなもの専門だったんだけど、彼女はもう少しハードなものをいろいろと教えてくれた。そして私はいわゆるalternativeのほとんどのものがPOPであることを知った。そう、たとえば、Bauhausとかね!!

いろいろ。いろいろ。本当にいろいろ。
そして私がロンドンにいるときに、彼女もまたやってきた。旅行ではない。彼女は結婚をすることになったんだ。相手は一時音楽もやっていたイギリス人。バンドはそれほど売れなかった。インディーズでマニアックなファンがついた程度。だからそのときにはもう音楽はやっていなかった。
長いこと手紙のやりとりでふたりは付き合っていた。そしてある日、プロポーズされた。それもすごい話なんだけど。

ともかく私がロンドンにいるときに彼女はやってきて、そして結婚式を行った。場所はどこだったか忘れてしまった。サウスだったか、イーストだったか・・・・。私はほかの友人を誘ってチャーチの式に参加した。古着の白いワンピースを着て。that petrol emotionのバンドのメンバーも来ていた。音楽仲間なんだ。それからみんなは近くのパブに流れて、そこでしばしご歓談って感じ。気さくなパーティ。ちなみに彼女の両親は離婚をしているのだけど、そのときはふたりそろってロンドンまでやってきた。幸せな日だった。

一度だけ私は彼女たちの新居に遊びに行った。ロンドン市内にある公団のような建物の小さな家だったけれど、全体に白い感じの部屋で、とてもキュートだった。日本の家は小さいといわれるけれども、イギリスの、少なくともロンドンの家もかなり小さい、ことも多い。実にコンパクト。
私と彼女はそこで一緒にカレーを作ることにした。でも、カレールーのないカレーなんて私は作れない。適当にパウダーで作ったけれども、これが信じられないくらいまずい。そこで私は途中で日本モノも置いてありそうなスーパーにバスに乗って買出しに出たりした。結局見つからなかったけど。
そんなわけで激マズい薄いカレー味のようなスープのようなものを私たちは3人で食べた。まずい、まずい、という私に、ダンナ氏は「おいしいよ」と笑顔で言ってくれた。やさしい人。いかにもイングリッシュマン。

それからしばらくして、私がお金がつきて日本に帰ることになったとき、彼女とダンナは出発の日にわざわざ私の家まで訪ねて来てくれた。嬉しかった。
あまりの家の汚さに、そのダンナも呆れていた。そのときにKitは留守だったので、私は手紙を残すことにした。
「こんなにすばらしい部屋をありがとう」って書けば? と彼は皮肉なジョークを言い、私たちはみんなで笑った。
それが彼女たちに会った最後になった。

そんな別れから数年が過ぎて、訃報は突然に届いた。昔の雑誌仲間の男の人から。どうして知ったのか、あるとき突然に電話があって、彼女が死んだことを知らされた。自殺だと言った。
あまり詳しいことはわからなかった。墓参りをやるから来ないか、とその人は言った。昔の人たちが集まると。私はそのときあまり良い状態ではなかったので、昔の知人に会うのはいやだった。だからお墓のある場所だけ教えてもらい、ひとりでいくことにした。

to be continued