Japanese Whispers 3 よくわからない話
kumicoさんと再会したのは、何がきっかけだったんだろう。
おそらく、私が連絡をしたのだろう。なぜなら彼女には携帯があるけれども、私にはない。それに私はしばしば住居を変えている。連絡をしたのは、kitのゴミ屋敷に引っ越した後だったと思う。(ちなみにkitの家には電話があった)
そのころには、さまざまなストレスに耐え、いや、実のところ耐え切れず、私は過食に走り、ずいぶんと太っていた。久々に再会したkumicoさんは、開口一番「太ったね〜」と言った。
そのときにはもう赤ちゃんは生まれていた。男の子で、名前をakira君と名づけられていた。最初にその赤ちゃんを見たときのことなど、肝心なことは本当に記憶から欠落している。
それでも再び私はHampsteadの彼女のフラットにいき、ベビーシッターをやることになった。
昼間、彼女たちが出かけたときには赤ちゃんと留守番をして、子どもを抱いてHampsteadの知的なシアターの前まで行ったりした。そこの綺麗な男の子と話したくて、実際に友だちとの約束もあって、赤ちゃんを抱いたまま、彼に「ここに小柄なJapanese Girlが来なかったか?」なんて聞いてみたりもした。(実は、この彼とは人づてにつながりがあるのだった。それはまた別の話)
ちなみに再会したときに、家には同居人の彼女はいなかった。kumicoさんの話によれば、恋人ができて引っ越したとかそんな感じで、でも二人もうまくはいってなかったのかなという印象を受けた。おそらく、私があまり親しくできないことに、彼女も気づいていたんだろう。
そんなわけで、私はベビーシッターとして、空いた子ども部屋に泊ったりもした。
そのころになると、kumicoさんは次第に経済的に厳しい状況になってきていた。それが実際にどの程度逼迫していたのかはわからない。仕事をしなくては、と彼女はいい、実際にコンパニオンみたいなことをしたりもした。シンプルだけど綺麗な顔立ちの人だったので、厚化粧をするとものすごく雰囲気が変わった。一度だけ、私はその姿を見た気がする。
ある時、私はまた彼女の家にいて、ベビーシッターを頼まれていた。その日は仕事ではなく、Didierとのデートで食事に行くため、私は留守番を頼まれたんだ。戻り時間を約束して、私はAkira君とカーガンと家に残った。
けれども、いくら待っても彼女たちは戻ってこなかった。そのとき私が住んでいたWest HampsteadとHampsteadまではミニ・バスが通っていて、それに乗れば一本で行けた。ただし、それに乗れないと地下鉄を乗り継いだように記憶している。しかも、私の家(つまりkitの家)は地下鉄の駅からはひどく遠かったんだ。
結局ふたりが戻ったのは、約束の時間よりも2時間近く遅れてからだった。
私はひどく不機嫌に彼らを迎えた。けれども彼らには、私が腹をたてていることが心外だったみたいだ。そして、とっくに電車もなくなっているし、私は彼らが私のためにキャプを出してくれると思っていたけれど、そんな気もないようだった。
ムっとしている私に、kumkicoさんはとりあえず電話をしてキャブを呼んでくれた。向こうのミニ・キャブは頼んだ時点で行き先を言い、値段を交渉する。いくらいくらだけどいい? とkumicoさんは私に訊ねた。「私が払うの?」私はひどく頭に来た。けれどもそれをはっきりと言うことができなかった。ベピーシッター代も、当初の話よりも少なかった気がする。でも、それについても機嫌の悪い顔をすることしかできなかった。ただ私はひどく傷ついた。そういう思いやりというか、理屈ではない部分で人の配慮を期待して裏切られると、一番傷つくのだ。それは私の勝手なのだけど。
結局どちらがキャプを払ったのか、記憶はひどくあいまいだ。どんな風にキャプに乗って、どんな風に帰ったのかについて、本当に何も思い出せない。ただひどく不愉快で、ガッカリした気分だったことだけは確かだった。
それから数日後、私は電話でkumicoさんと話している。おぼろげな記憶を辿れば、おそらく私が電話をしたのだ。
気まずい思いのまま数日。私は不愉快な思いをしたけれど、同時にそんな自分に対する自己嫌悪の気分にかられた。私は自分の態度にkumicoさんも怒っているのではないかと、気になっていたんだ。
結局のところ、すべでは自己弁護だ。でも私は悪く無い、という。自分の正当性をわかってほしいだけ。つまり、なぜ機嫌が悪くなったのか、ちゃんと伝えたいと思った。それは要するに、親しき仲にも礼儀あり、みたいなことなのだけど。
電話からは、いつもと変わらない感じのkumicoさんが出て、私はホッとした。彼女は、今は手が離せないのでかけ直すと言い、電話はちゃんとかかってきた。
私は「イヤな思いをしたままなのはいやだったから」と話した。ベビーシッターがイヤなのではない。代金が少なかったら怒ったのでもない。ベビーシッターといっても何でも屋ではない。そのくらいは配慮してほしい。こちらの都合も考えて、時間は守ってほしかった・・・云々。
kumicoさんは「ごめん」と言ったものの、それほど悪いと思っている風でもなかった。あのあと彼女はDidierに、なぜ私が怒っているのか? と聞かれたそうだ。
「そういうところ、Didierはやっぱりこっちの人だから感覚が違うんだよね。お金を払って頼んでいるんだから、悪いとか考えないのだ」と彼女は言った。
ビジネスライクというか、何というか。悪いからとか、遠慮とか、そういう感覚がないのだ。
そんなものか、と私は思った。自分たちのことよりも、私の都合を優先して考えるなんてことはないのだ。しかもお金を払って頼んでいるのだから当たり前。黙っていても気を遣ってくれるだろう、なんていうのは日本人的な感覚。何時までに帰ってこい、と私は言うべきだったんだろう。何時以降はやりません、と。
ともかく、私たちはいろいろと電話で話した。kumicoさんはいつも変わらなかったし、私は自分の気持ちを伝えられて良かったと思った。
「またベビーシッターするから」と、私は言った。
「また遊びにきて」 kumicoさんは言った。
けれども、その電話以降、私はkumicoさんに会うことはできなかった。
その後、電話をしてもいつも留守だった。Hampsteadまで行ってみたが、家はやはり留守だった。メモをドアに置いておいたが、連絡はなかった。
数日後、私は再びHampsteadを訪ねた。呼び鈴を押すと人の気配がし、そしてドアがあいて顔を出したのは見知らぬ白人の若い女性だった。
「kumicoは?」
そう聞くと、その女性は、仕事に行っている、と答えた。そして自分はベビーシッターをしているのだ、と。
静かなHampsteadの道を私は考えながら歩いた。
Kumicoさんは、もう私にベビーシッターを頼まない。
もしかしたら、私が思うよりもずっと彼女は金銭的に追いつめられていたのかもしれない。私はその彼女を責めてしまったのかもしれない。
もしかしたら、あれからDidierと何かあったのかもしれない。この前のことが、ささいだけれど彼女を切実にする何かのきっかけになってしまったのかもしれない。
それはすべて、私の憶測。自意識過剰の関係妄想だ。
でも私は思った。子どもを産んで育てる現実に、彼女の不安は的中していたんだろうか。
結局そのあともkumicoさんから連絡はなかった。私も電話をするのをやめた。Hamsteadに行くこともやめた。
そう、やめた。